『商売繁盛の秘訣』を知りたい方へ|ビジネス名言・格言10選

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儲ける経営より「儲かる経営」

市村清(リコー 創業者)

解説

いちむら・きよし
1900年生まれ。高度経済成長期のスター経営者。別名「経営の神様」。


「事業というものは世間の利益と一致したところに反映するものであって、”儲けてやろう”という気持ちでやる事業には自ら限界があるものだ。ところが”世のためにやるのだ”という精神で道を即してやれば、”自然に儲かる”ものであって、その方がむしろ利益は無限である」
「経営というものは一枚のパンティーを売ってわずかに儲かり利益が累積して成り立っていくものである。起業家は地道な努力を決して忘れてはいけない」

商い繁盛の第一は、なんといっても仕入れにある。
そして第二は、誠意をもってお客に接することだ。

伊藤次郎左衛門(松坂屋 始祖)

解説

いとう・じろうざえもん
1609年生まれ。「元金掛値なし」の正礼販売を貫き松坂屋の基盤を作った始祖。


伊藤は「困っている人たちに喜んでもらえること」が商売になると考えていた。「薄利多売、元金掛値なし」という看板をかかげ、さらには店員に任せっぱなしにせず、自分自身も仕入れに出かける徹底ぶり。現代でいう”ディスカウントショップ”のビジネスモデルで、当時の商人たちから非難ややっかみの声も多かったが、独自の路線を貫き「伊藤の店にいい物がある」と絶対の信頼を得るところとなった。そうして、「商いの秘訣は、なにに置いてもまずお客さまに喜んでもらうことにある」ことを悟った。

商人は世間より一歩先に進む必要がある。
但し一歩だけでよい。
何歩も先に進みすぎると
世間を離れ予言者になってしまう。

服部金太郎(服部時計店 ※現セイコー 創業者)

解説

はっとり・きんたろう
1860年生まれ。21歳で服部時計店を開業してから、全国の時計生産の70%を占める大会社まで発展させた”時計王”。


服部は同業者が仲間内で商売しているなか、すでに外国商館から仕入れをはじめていた。そして、同業者が外国商館で取引を始める頃には直接輸入を手がけ、ライバルが輸入を始めた頃には、自分たちの手で時計をつくり始めていた。服部は、常に一歩先の経営で時計王国を築いたのだ。

儲かるときにあきらめることが商売の要諦で
「ひと儲けしてやろう」という欲望が先立つと
何事も完成することができない。

早川徳次(シャープ 創業者)

解説

はやかわ・とくじ
1893年生まれ。穴をあけずに締めれるベルトのバックルを発明。シャープペンシル(早川式金属繰り出し鉛筆)を発明。


早川の幼少期はそれは壮絶なものであった。しかし、境遇を乗り越え、知恵を絞り”シャープペンシル”や”ベルトのバックル”を発明し、苦労の末にシャープを創設した。早川は、苦しい時代に手を差し伸べてくれた人々を忘れることなく、「私達の事業の完成は、個人の野心や、自己満足だけであってはならない。その理念はより高い社会への奉仕と感謝の実行を貫くものでなくてはならない。」と常に報恩の生涯を送った人間であった。

売り上げは、お客さまからの支持率だ。
利益は仕事の段取りや効率を示すモノサシである。

伊藤雅俊(イトーヨーカドー 創業者)

解説

いとう・まさとし
1924年生まれ。母と兄が開業した「洋華堂洋品店」を引き継ぎ、持ち前の知恵で流通革命をリードしてきた。


伊藤は、「限られた資本を最大限に活用するためには、一等地より二等地を選んだ方が投資効率がいいんですよね」と語り、意図的に”二等地に同業他社より大きめの店舗”を構えるやり方をとった。しかし、店舗内のカラー・コントロールはすべてアメリカの業者に依頼し、設備や器具はアメリカの店を視察して、シアーズ・ローバックや、J・C・ペニーで使っているものを取り入れていた控えめではあるが、常に気鋭の取り組みが成功に導いたのだ。

人のために必要な品物をなるべく安く提供すれば、
人々の必要を充たし、また自分の生活も成り立つ。

岩波茂雄(岩波書店 創業者)

解説

いわなみ・しげお
1881年生まれ。神田高女等学校の教壇を降りて、開いた古本屋が実質的な岩波書店の創業となった。


創業時の岩波書店は、”古本の正札販売”を行う古本屋であった。客が「高すぎる」と値切ろうものなら、「正札どおり一銭もお引きできません」と突っぱねていたが、意外にもこの商法が客の信用を集めて希少価値を高めていった。そして、古本屋を開店して1年後には出版事業に手掛け、今ではお馴染みの文庫本を日本中に普及させていった。岩波の功績をよく表す言葉となった。

何も宣伝せずともお金をつくれるのは、造幣局くらいなものである。
商人ならば、常に腰を低くし頭を下げることだ。
商売繁盛の秘訣はお客さまにご満足いただくことに尽きる。

青井忠治(丸井 創業者)

解説

あおい・ちゅうじ
1904年生まれ
26歳のとき、月賦販売店の暖簾分けをしてもらって”家具の月賦販売店”を開店し、今日の丸井を築く。


青井は、それまでの業界の常識にとらわれることなく、月賦販売店の古いイメージを払拭していった。たとえば、当時の”月賦屋”といえば主に家具中心に扱っていたが、一流ブランド品、ラジオ、洋服、靴など幅広い商品を取り扱っていた。また、来店しやすい便利なところに店舗を設ける必要があると中央線沿線に重点的に出店し、「宣伝なくして金を生むのは造幣局のみ」と60ヶ所の駅に広告看板を設置して反響を呼んだ。その姿勢は丸井の社員に引き継がれ、今もなお駅のそばで活躍している。

商いとはほかでもない、ねばりである。
ねばりを忘れては儲けることなぞできないし、
商いそのものが成り立たない。

山崎峰次郎(エスビー食品 創業者)

解説

やまざき・みねじろう
1903年生まれ。
日本で初めて、カレー粉の国産・大衆化を成し遂げた”カレーの神様”。


山崎は、生まれて初めてカレーライスを口にしたとき、あまりのおいしさに衝撃を受けたという。当時、カレー粉はすべて外国からの輸入で値段が高く、庶民がなかなか口にできない高級料理であった。原料がなんであるのか見当もつかない状態から、「なんとしても多くの人に食べてもらいたい」と、苦心に苦心を重ねてカレー粉の調合に成功する。山崎は、創業から”美味求真”を口ぐせに、「人々の豊かさと健やかさのために、味の全てを生み出す」と、いかなる妥協も許さなかったという。

損して徳をとれ
利は源にあり
商いは人気なり

和田哲夫(和田哲夫商店 創業者)

解説

わだ・てつお
1893年生まれ。日本的商道の原点となっている「船場商法」の最後の商人。


船場商法の代表的で「扇子商法」というものがある。これは、”扇子は暑いときには広げて使うが、使わないときには小さくたたむ”ことと同じように、経営も”景気の良いときは広げて、悪いときには縮める”という商法のことである。最後の船場商人といわれた”ワダテツ”は、孫娘の婿である和田亮介に熱心に語り伝えたという。

「船場商法の寸言半句」
一、損して徳とれ
二、利は源にあり
三、始末とはモノを活かしてつかうこと
四、利は努力の結果
五、金は返借に節あり
六、人少なきところ才覚育つ
七、商いは人気なり

 

<参考文献>

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